昭和47年8月23日 月例祭における御教話     (信太郎)




 今日の前講を西岡さんが勤めておられました。学院での先生が西岡さんに話されたこと。それは、合楽から10名の修行生が来たが、その一人ひとりが、強烈な印象を残して行った人ばかりだったという事です。これは、良いこと、悪いことにつけてだと思うんです。確かにね、合楽にはそういうようなものがあるようですね。もう、本当にあの、強烈ないわゆる印象と。まあ、毒にもならなければ、薬にもならんというようなのじゃなくて、毒になるかと思や、薬になる。薬になるかと思や、今度は反対に毒になっておる事が、非常に激しいというような人達が多いという事は、中心である私の信心がそうだからだと思うんです。ですから、皆さんもやはり、そこんところに心しての信心をさせて頂いて。ね、長所はいよいよ長所として、欠点はいよいよ、そこに気付かせて頂いて大改まりに改まらせて頂こうとする信心が出けなければいけない。神様から、(    )修行時の時分にもよく頂いておりました。まあ、言うならば、(毒びわ?)口のような信心だと。ね。例えば、私の家にあるめぐりというもの。めぐりを蛇で表現して下さるとするならば、蛇のようなめぐりでも、その中でも、猛毒を持っとると言われるような、蛇のような、こうひらくちのような。で、それがいよいよ、なら、アルコール漬ける。ね。強い度の焼酎にでも漬けさせて頂いたら、これはまた、天下一品というような薬になる。いわゆる、毒薬変じて薬にする事が出けるほどしの、ほどのものを持っておりながら、その毒の面が出て来る事が、まあ惜しい事だという事じゃないでしょうか。ね。私の話を、例えばその当時聞いて下さった方達でも、本当に有りがたい、有りがたいと、有り難い面だけを受けて下さる方は大変おかげ下さった。けれども、その反面の人には、かえって害を流しておる。それは、ちょうど、ね、お風呂、てっぽう風呂ちゅうのがありますね。あの、鉄砲風呂に、お風呂に入れておるようなもん。入っておる人だけは、ああ、極楽と言いよるけれども、その周辺の人はね、その、石炭とか普通のマキをくびれば良いのですけれども、ゴムぞおりとか、タイヤんごたるとば(くびとる?)。それもんだから、臭いがプンプンして、周囲の者は大迷惑をしたという時代に、そんなお知らせを頂いておりました。お湯に入っておる者は、私の言う事を聞く者は、ああ、極楽、有り難いとこう言ってるけれども。その周辺の者は、反対に迷惑をしておったと。そこで、そこんところに、本気で改まりをさせて頂いて、人が、私は合楽では助かるようになったんだと。だから、ここの中心で私自身がそうであるから、やはり、類は類を持って集まると言うのですから。ね。もう本当に、類は類を持って集まる理というものを思うてです、私自身にも、なら親先生のようなものがあるんだと。毒にもなりゃ薬にもなる。一方の人には喜ばせ得る力を持ちながら、一方の人には傷をつけるといったようなものを持っておるんだという事をね、私は、今日は革めて御結界で、西岡さんの話を聞きながら、それを思うた。なるほど、合楽から10名の修行生が行ったが、一人ひとり、もう強烈な印象を残した者ばかりであったと。なるほど、一人ひとり思うて見ると、もう本当にその通りであります。素晴らしい。けれども、また反面を見ると、もうそれこそ、100年の恋もいっぺんに冷めるようなものを持ってる。(幻滅をかんだ?)。ね。私は、これは男でも女でも同じですけれども。器量が良いという事はね、器量が良いという事を幸せのようであって、そうではない場合が多いですね。なぜかと言うと、その虫がつきやすいんです。合楽の場合は、皆器量がいいとです。だから、今度は、そこからつかんような虫がつくんです。だから、その虫がつかんような、器量が良い上に虫がつかんようなおかげを頂いた時に、はじめて玉の輿といったようなおかげが受けられるのじゃないかと思うです。ね。はあ、家の娘は器量が良い。家の孫は器量が良いち、器量が良い事だけ喜んでだけはおられんとです、実際は。はあ、こっちん息子は、これは器量がええと思うたら、本気で虫がつかんようにお願いせにゃいけません。今日は、こうたきさんところの一家が参って見られた。私は思うんです、今日はそれをしみじみ。もう、合楽の場合はね、もうそれこそ合楽教会の根とも柱ともなられた御霊さん達の事を、こう思うてみるとです、皆がそういう面を持っておった事です。素晴らしかった。こうたきさん辺りでもそうだった。ね。久保山先生辺りでもそうだった。もう、絶対誰でも真似の出けんものを持っちゃった。三橋先生なんかがそうでした。ね、けれども、やはり虫のつきやすいものを持ったから、一面に、反面には、言うならば、ね、もう神様からご覧になったら、許されないものを持っとった。ほら御霊様がそれこそ、今日はニヤニヤしながら聞きよんなさるじゃろうと思う。ほんなこつですばい、親先生ち言いよんなさるに違いない。私がそこを指摘して言うと、そげな事なかち、こうこうやって言いよった。もう、三橋先生な死ぬるまでそれを言い張って行ったですからね。アンタ、ここばいっちょ改まらにゃて、そげなことなかち。久保山先生のなんか、の場合なんかは、なかなかああいい、その表面に素晴らしい人格者でしたからね。もう、言いようがないほどだった。けれども、神様がご覧になるとそうではない。言うならば、二重人格というようなものがあった。ね。いわゆる、こうたきさん達の場合でもそうであった。ああいう、例えばおかげを頂いて、ない命を助けて頂いて。おかげで、おかげでという事も分かって来たけども、亡くなった後でした。奥さんが参って来てから、もう本当にあなた、もう亡くなってからでんラブレターん来よった。亡くなった事知らんとじゃん、この頃まで。やっぱ、そのなかなか女子好きのする、それは器量が良かったです。というようなお届けを聞いた事があったがです。ね。なるほど、器量が良いという事はね、それは、虫がつきやすいという事なんです。だから、こっちは生身の人間ですから、あん時に、もうない命を助けて頂いとったと言いながら、思いながら、ついつい引っ張られると、こうやって、傾いてしまう。というようなものがね、これは、合楽全体にそれが言える事なんです。今日は、御霊さんの事を言うて相すまんじゃなくて、御霊様もなかろう、ほんな事そうだったと聞いて下さっておると思うんです。んなら、ここの先生方の場合を言うてもええ、秋永先生において然り、久富先生において然り。もう、どこにもこげな先生はおるまいというようなものを持ちながら、その反面に、また、これは銘々でしか分からない、その反面のものを持っておるということ。ね、なるほど、強烈なものを合楽の者は持っておる。だから、それが良いもの一本で強烈になる時に、私はいよいよ、ね、美人が心堅固であって。ね。というのだったら、必ず玉の輿が待っておる。ね。だから、合楽の人達はそういう意味でです、器量がいい訳です。だから、虫がつきやすい。ね。私は今日は、朝からもう、体がきつうして、きつうして、とうとう一日中休ませて頂いた。ね。まあ、お月次祭でも仕えたら元気が出るだろうかと思いながらお祭り仕えてさせて頂いたけれども、やっぱりきつい。ちょうど、先日の祈願祭の時がそうだった。もう、とにかくきつい。先生方も皆見えておられるけれども、御挨拶をしようというような、まあ、今までなら、ね、他所の先生方ですから、お世辞の一つも言わなきゃならん。けれども、もう座ったきり言おうごとないとです。お祭りが済んでから、もうツーッと帰るごたる人達がござるばってん、まあ、ようございましょうが、と引き止める気持ちもせん。ね。けれども、私は今度の、ちょうどお祭りにあんなにきつかった事が、とてもおかげだったと。これは、もういつも、この生き方で行って良いと思うたですね。人間心強い事はいらん、お世辞なんかいらんと思うた。かえって、非常に気分が良くてスムーズでしたよ。だから、いらん事は言う事はいらんですね。心にもない事を口に言うて、相手にこう、お世辞なんか言う必要はないと思うです。ね。もう、それで、帰なさる人は帰なさって、神様のご都合だからと思うて、有り難いから本当もう、それは、御直会なんかは、もう半分しかなかったです、だから。だから、これはもう本当に有り難い。後からの人が、そがしこ余計にご馳走頂いてよか。ね。いや、ほんなこつです。もう、ちょうどあの大テーブルに囲むだけの先生方しか残られなかった。ほれは、もう帰ってなんか、その、そのわざわざ帰らんでんよかがと何てんというような思いがさらさらなかった。ですから、私はその、お祭りの時にきつかったのは、もうちょうどお祝詞を奏上させてもらうちょっと前に、あの、心の中から何か知らん有り難いものが湧いてきて。それから、この元気で、あのお祭りを仕え終わらせて頂いた後は、また元気であったが。ちょうど今日は、そんなような、そのきつさでね。とうとう、その、何か有り難いものには現れずに、やはり終日きつかったというような一日でございましたけれども。ね。私達が、本当に、今日皆さんに聞いて頂きますように、確かに私どもは、もうそれは誰よりも素晴らしい、強烈なものを神様にでも、人にでも与えれれるものを持ってるんだという事。これはね、私がそうなのだから、私ん所に集まる、縁を頂いておる人達は皆そうだと、私は思うていいです。ね。そういう理の元に、私どもと、こうやって結ばれとるとです。ね、縁あってこそ結ばれるというのは、そういう同類の者が、やはり集まるのです。先日もある結婚の話、あの、お届けがありましてね。それから、ちった自分んとに見足らんちゅうごたる風なでした。そしたら、私が御心眼に頂くのがね、ビールをこうついで、カチンとこう言わするでしょう。ね。両方に一応なビールをついで、カチンと言わするところを頂いたです。ははあ、これは同じビールだなと思うたです。ビールのお知らせは、有り難き・勿体無きじゃあるばってん、あれは汚い心から生まれる有り難さということ。んなら、今日、私が申しますならば、素晴らしい、強烈な有り難い良いものを持っておるところから生まれて来る有り難いを、まあ、日本酒と致しましょうか。それとは反対のですね、もう本当に、自分に、もう浅ましいごたる心から、それでも信心すりゃ有り難いものは湧いて来るです。そういうものが、ビールの有り難さです。それで、合わせてからカチンと言わっしゃるところじゃけん、これは、そげなことなか。ちょうどよかつばのち私は言うた事でした。はっは。うん。ちゃんと、もう決まっとるとじゃけん。そういう者しか一緒になられんごとなっとるとじゃから。ね。水と油は一緒になられん。水じゃから水、油じゃから油を神様がちゃんと(         )とです。ね。縁ちゃそんな不思議なもの。だから、私と皆さんは同じものを持っておるて。伊万里の竹内先生が、またはじめに何回がお参りされた時にです。竹内先生、あなたは偉いお方だけれども、けれども、やっぱり結局、私が持っておる悪い汚いものを、あなたは持っておられるのですから、大した事なかですよと言うて話した事があるんです。そうなんです。でなかったら続かんです、合楽には。ね。ですから、共々に、だから助かり合うて行かなければいけんのです。だから、共々にその長所欠点をです、分かり合って、そこんところを励まし合いながら、助かって行かなければいけんのです。ね。だから、とにかく合楽の人は自分の長所だけを見ると慢心が強いです、だからそういう人は。ね。だから、そういう人が、なら自分の欠点である、言うならば、まあ、言葉は悪いですけれども、なら二重人格的なものがです、これは誰でもありますけれども。特にそれが強い訳です、合楽の場合は。ね。ですから、ここんところは、ね、神様の心に適わないものだというものを、本気で気付かせてもらい。毒と薬になるところのものをです、いわば毒になるところを、本気になって取り組ませて頂いて、改まって行った時に、合楽の場合は、それは素晴らしい信心が生まれて来るのです。これはね、その強烈なものを持ってるから、強烈な素晴らしい事になって来るとですよ。ね。それを、また強烈な悪いもので、こうやって混ぜくってしまうから、合楽の場合、こう、同道回り的な事になって来るんです。本気でそこを改まる。ね。そこで、私が思いますのはね、私が大祭の日に、まあ、おかげを頂いて体がきつくて、物を言うごともなかった。だから、まあ、言うならジ―ッとめいもくして黙ってしとればです、もう例えば、あそこで座る時、私はいつもは気兼ねしてから、祭主を仕えるでん、もう一番教会長は、一番下、こっちん方の隅の方に座らんならんごたる風に教えられとるもんですからね。いつもそげんじゃった。で、今日はもう、まあ、(あつかましい?)とこへちゃんと座ってから、もう動かなかった。で、先生方が皆後ろへ座りよんなさった。というように、それで良いのです。大坪さん、そげん所に座ってちゅうモン誰んおらんです。思いもしよらんです。こちらが思いすごしなんだ。はあ、これはこれで良いなと、私は思うたです、これからも。ね、そして、なら、帰ると言うて、ツーツー帰りなさる先生があんなら、帰ってもらった方が、後がかえって雰囲気がいいです。ね、しかも、おご馳走はちゃっと余るちゅうごたる風。はっは。だから、もうどっちつけたっちゃおかげである事を、私どもは自分の心で、そのイライラしたり、腹が立ったりしよる訳ですからね。もう、本当にその時点を有り難い、有り難いで頂いて行けれるという事を、まあ、今度の大祭で体験したと同時にです。ね、私どもが年に一回の祈願祭だ。それで、私がこんな状態であってはいけない、と一生懸命で神様へ向かわせて頂くところからです。ね、どこから湧いて来るか分からん有り難いというものが、そのきつさ、だるさを全部こう、取り除いて下さるようなおかげが受けられるという事実なん。なら、今日でもそうです。んなら、大祭を仕える時のような気持ちで私がです、おったら、今頃はもうおかげを頂いておったに違いはないです。けれども、填りが、大祭の時と月次祭じゃそげん違うわけ。そして、今日はもう、本当に久しぶりに、今日は終日、もう起きられんぐらいにきつかったです。床屋さんが来てから、どうした、今日は顔色の悪い事ですかというぐらいに、具合が悪かったんです。ね。自分で分かる。だから、これじゃいかん、これじゃいかんと思うてもです、それを本当に神様に一心発起、神様に向ける時にです、切り取られないものも切り取らせて頂けれる、改められないところも改まらせて頂ける。その勢い、その有り難さを持っておかげを頂いたらいいのです。ね、だから、例えば私どもが、例えば毒薬変じて薬になるというような事も申しますけれども。その毒薬になるところは切らせて頂いて。片一方には薬になるようなものを持っているんですから、私どもの内容に。ね、だから、それを切り取らせて頂けれるという、言うならば元気な心というか、勇猛心というものはです、ただその、ただ元気を出しただけではいけない。ね。神様のおかげを頂かなければ。神様のおかげを頂かなければ、それが切り取る事は出けないという事をです、分からせて頂かなきゃならん。ね。なるほど、私どもは神様にいよいよ、ある意味に、良い意味合いで向かった時には、強烈なものを持っておる。ね。言うならば、誰にでも、愛されるものを持っておる、一面には。けれども、その一面には、反対には、ね、もうそれこそ、それを人に見られたら、その人は、もう幻滅を感ずるだろうといったようなものを、私どもの心の中に持っておる。一つ、合楽の主だった人達をずっと見て御覧なさい。もう、皆そうです。今日は私は、御霊様に例を取りましたけれどね。まあ、ここの先生方の例を取りましたけども、銘々がそうなんです。ね。ですから、そこを一つ改まらせてもらうた時に、初めて、素晴らしい、いわゆる意味においての強烈さというものがです、ね、頂けて。いよいよ、有り難いおかげが受けられると。ね。だから、これはどうでも一つ、まあ、言うなら毒(びらくち?)じゃないですけれども。ね。一面にはです、ね、もうその人を帰依しておる人。例えば、ここ高橋さん、高橋さんという人、もう貴方の真似は出けんという人は、もう高橋さんが素晴らしいんですけれども。それの反対の人から見ると、ちょいと、あれは(ふうがじん?)ちゅうごたるものがある訳。ね。ですから、そこんとろを、ね、切り取らせて頂けれるおかげを頂いたら、皆から素晴らしい人だと、それは、神様からもそう認められるところのおかげを受けた時に、初めてお徳が受けられるという事になるのです。ね。おかげは受けられてもです、お徳を受けるという事は、自分を知るということ。そして、自分の中身にある、そういう強烈な良いもの、悪いものを分析して。そして、その悪いものへ本気で取り組ませて頂くという生き方をです、身につけさせて頂く信心。そこから、合楽ならではとか、合楽の人にはとてもかなわんといったような素晴らしい面においてのおかげ。学院でここから修行に出た、その一人ひとりがです。ね。10人出ておる、その10人が10人ながら、強烈な印象を残して学院を出たと、学院の先生が言われたという事です。ね。それは、だから、良いもの悪いものを、とても貴方はちょいと、ロクな奴じゃなかったちゅうごたるとかも知れませんよ。ね。けれども、その、そういうものを残せれるほどしのものを持っているのですから。ね、その反面が取れた時に、いわゆる神様にいよいよ愛される心というか、お徳を受けさせてもらえれる神様の御真意を頂けれる人柄も受ける事が出け、また、おかげも頂ける事が出けると。だから、私どもの色んな、まあ、例えばお気付け的な事はです、もう、必ずその反面に取り組め、その反面を改まって行けという事だと思います。ね。私どもが器量が良い、器量が良いと言うてです。ね。その、器量が良い事だけを、ただ幸せのごと思うちゃ間違い。はあ、まあ、合楽、合楽には勝たんちゅうような思い方は間違い。ね。それは、良い面だけが出た時には、確かにそうだけれども、そのかわりに、他所の人が持たんごたる嫌なもの、汚いものがあるという事をです、私どもは先ず知らせて頂いて、それを改まって、初めて合楽ならではというおかげになって行かなければいけんと思うのです。どうぞ。